昭和中期までの灯台守の仕事
航行する船を見守る灯台を365日休むことなく整備し維持する
明治から昭和中期まで回転機械の巻上げを行う
御前埼灯台には明治7年(1874)から平成11年(1999)までの125年間灯台守が常駐していました。
灯台守の最大の使命は、「一刻たりとも灯台の灯を消さない」ことであり、昭和28年(1953)に灯器回転装置がモーター駆動に変わるまでは分銅の巻き上げを人力で行っていました。
レンズを動かす仕組みは鳩時計と同じで、巻き上げた分銅が落下する力を水平の回転力に変換し、総重量3トンを超える大型レンズを回していました。
灯台守は、分銅が落ち切る前にワイヤーを巻き上げなければならないため、一晩に1、2回、80段近くある階段を登ったり下りたりして、500〜600キログラムもある分銅を巻き上げるというかなりの重労働でした。
船との無線交信や気象観測も
灯台守の仕事は、灯台の点消灯だけでなく、灯器やレンズ磨き、回転機械装置の維持管理の他に、船との無線交信、海上の気象観測(気象庁へ通報)がありました。
2006年から国内の灯台は無人化へ(灯台守の廃止)
近年、航路標識等の通信技術の進歩により、平成18年(2006)の長崎県五島列島の女島灯台を最後に全国の灯台から灯台守が廃止され、灯台の灯りは中核の海上保安部(御前埼灯台は清水海上保安部)で遠隔により管理されています。
動力式回転機械
レンズを回転させるための機械装置です。 御前崎では昭和28年(1953)に自動巻き上げ機が取り付けられるまで、灯台守が人力で分銅を巻き上げていました。
水銀槽式回転機械
昭和24年(1949)に、国産大型3等閃光レンズへの改修時に水銀槽式回転機械が設置されました。
この装置は、大きなタライのような水銀槽の上に重いレンズを浮かべ、小型モーターで回転させる仕組みで、小さな力でなめらかに回転させることができます。使用水銀量は約8.8ℓ(重量約120㎏)でした。
灯台守家族の生活
一般的に灯台は人里離れた岬の先端や離島にあり、3、4人の灯台守が家族と一緒に住み、業務を行っていました。灯台守の半生を描いた映画「喜びも悲しみも幾歳月」のシーンがこれをうまく表現しています。
○溜めた雨水を生活用水として使用する。
○食糧を得るために畑を耕し、魚を釣る。
○街や集落から離れているため体調が悪くても医者が直ぐ来れない。薬を買う場所もない。
○子どもは遠く離れた学校へ何時間も掛けて通学した。
○台風や山火事などの自然災害は生命と直結し、戦時下においては多くの灯台が攻撃され殉職者もいた。
御前埼灯台の場合は、石門一つで住家につながっていて、子どもの学校通いにも買物にも一向に不自由は感ぜず誠に恵まれた灯台でした。また、住民も灯台守家族と村の人と同様に接していましたので、案外居心地の良いところだったようです。
灯台長のお話し
□昭和9年に挙行された「御前埼灯台60周年記念祭」を特集した新聞社の取材に明治42年から大正3年まで御前埼灯台の看守(灯台長)を勤めた25代向笠三平氏は灯台守の生活について次のように語っています。
「灯台の生活、それはずいぶん呑気なもののように思われていますが決してそんなものではありません。
昼間で不十分ながらも気象の観測から、その沖合いを通過する軍艦はもちろん各種船舶との信号まで怠わりなくせねばならぬし、夜間は交替で寝ずの番をする。夜間この火が1分間でも消え、沖を通過する船が進路を誤って座礁でもしたらその責任は重大です。万一灯台が消灯でもした場合は、一抱えもあるような予備灯を抱えてほとんど機械の回転と同じくらいに、上のベランダの周りをぐるぐる回るのです。好天、好気候の時は良いが暴風雨や真冬の時分は誠に辛いものです」。
□昭和49年、「灯台百年祭」にあたり、広報おまえざきに寄稿していただいた41代所長塚本一司氏は、「仕事は1分間も中断することができないものでして、灯火が正しく回転しているか、アンテナから発射されるシグナルに狂いはないか、その明滅の時間に異常はないかと緊張の連続です。嵐の夜はいくら慣れていても相当すごいですよ、何しろ暴風雨の中で生きているのは灯台だけですから…」。
□灯台職員の家族が転勤する朝のこと、子どもがいないことに気付き探してみると分銅巻上機械のワイヤーに挟まれて死亡しているという悲しい事故もありました。(旧御前崎町 松林忠夫さん)