灯台以前の歴史

洋式灯台への進歩を促した海難事故とカンテラ灯台

軍艦遭難事件を経てカンテラ灯台を新造

御前崎沿岸での座礁事故の記録

江戸時代の御前崎の海を236年にわたり見守ってきた見尾火灯明堂でしたが、暴風雨の時には役割を果たすことができず、時代が進むに連れ、増える船の安全を保つには不十分な状況となっていました。
明治維新後の明治4年(1871)2月鳥取藩の軍艦「乾坤丸」が、御親兵200余人を乗せて東京に向かう途中、濃霧のため尾高暗礁に座礁しました。この事故もあり、見尾火灯明堂に変わり、カンテラ灯台が建設されました。

洋式灯台の出現により短期間で役目を終える

カンテラ灯台は、洋式灯台に似た形で、高さ2間4尺(約4.3m)、横幅1間2尺(約2.2m)の板製、灯室は八角のガラスの構造となっています。1夜の灯油量は2升。洋式灯台建設中の期間は崖の中腹に移転して使用されました。
カンテラとは、提灯または灯台を意味するポルトガル語のcandela(カンデラ)や、オランダ語のkandelaar(カンデラール)に由来する名称です。
壺の部分に油を入れ、張り出した口の先まで芯を通して使う構造により、当時、一般的であった灯明皿に比べ油がたくさん入り、長い時間灯りを灯すことができます。

御前崎にまつわる遭難事故の記録

天保3年(1832)10月 豆州三宅島阿古村漁船新右衛門船

船頭(不明) 乗組員(船頭水主共10人)
天保3年8月29日:釣り漁のため阿古村を出帆
天保3年8月29日:昼八ツ時頃(午後2時頃)、俄かに東北風が強まり船自由きかず
9月1日:漂流しながら釣り入れた鰹を捨てる
9月1日:暮六ツ時頃、御前崎村より助け舟により上陸
(沢部忠三郎氏寄贈 御前崎町教育委員会所蔵)
沢部家所蔵文書

天保15年(1844)12月 尾州知多群半田浦清三郎船

直乗船頭(清三郎)
乗組員(船頭水主共14人)
積荷(種粕、〆粕、麻、綿実、筵包(むしろづつみ)、明樽、魚油)
11月2日 半田を出帆(江戸廻しの請荷物)
  15日 江戸川へ入津
12月4日 品川沖を出帆(柴屋の荷、種粕、〆粕、麻、綿実)
  同日、浦賀湊へ入津(番所にて御改を受ける)
  8日 同所を出帆
  9日 豆州下田湊へ入津
  10日 同所を出帆
  同日、御前崎まで登るが西風になり子浦まで乗下る
  11日 豆州子浦沖(この頃より北風になる)
  12日五ツ時頃、西北風が強くなり積み荷捨てる
  同日七ツ頃、水船になり艀舟にて御前崎浜へ上陸
(沢部忠三郎氏寄贈 御前崎町教育委員会所蔵)
沢部家所蔵文書

嘉永元年(1848)9月 紀州牟婁群古座浦次郎兵衛船

直乗船頭(次郎兵衛) 乗組員(船頭水主共6人)
積荷 杉丸太・米・大豆・小麦など
8月20日 古座浦を出帆
  23日 摂州御影へ入津
  同日 同所出帆(便船者1人乗る)
  26日 夜五ツ時(午後8時)、紀州潮之見崎(潮岬)にて北風になり
     元船水船になり艀(はしけ)に乗り移り漂流
9月1日 夜九ツ時(午前0時)、御前崎へ上陸
下村家所蔵文書

嘉永3年(1850)3月 日向国那珂群飫肥油津平蔵船

沖船頭(柳助) 乗組員(船頭水主共14人)
積荷 武家積荷 紀伊家御用荷(鰯〆粕、干鰯) 商人積荷(干鰯)
1月20日 江戸品川沖を出帆
2月10日 紀州此井鼻沖にて難風に遭う
  15日 南風強く昼八ツ時(午後2時)午前暗礁に乗り当てる
松林家所蔵文書

嘉永3年(1850)5月 讃岐国三野群塩飽牛鳴平右衛門船

沖船頭(徳太夫) 乗組員(船頭水主共16人)
積荷:長崎御用積荷(干鮑、昆布、鱶(ふか)ヒレ、鱒(ます)〆粕、干鱈、布海苔など)
嘉永2年10月10日 松前函館湊を出帆(長崎へ向かう)
嘉永3年正月7日  御前崎沖にて難風に遭い一部の荷物を投げ捨て下田へ
2月1日 下田へ入津(取り調べを受ける)
3月18日 下田湊を出帆(不足の荷物を積み入れる)
      同日、子浦湊へ入津(日和侍)
4月10日 同所を出帆(夕七ツ半(午後5時)頃逆風になり乗り戻す)
  11日 暁七ツ半(午前4時)頃、御前暗礁に乗り当てる(松林正徳氏所蔵)
松林家所蔵文書

文久2年(1862)正月 摂州大坂安治川一丁目吉田屋亀之助船

沖船頭(益十郎) 乗組員(船頭水主共16人)
積荷(一橋家御廻米、播磨国の村々年貢米)
文久元年12月9日 大坂井口を出帆(風向き悪く10日より1月3日まで
          同国一の谷沖に汐掛り)
文久2年1月3日 播州高砂浦に入津(日和待一橋家諸荷積み込む)
  13日 未上刻、同所を出帆(兵庫沖にて汐掛り)
  16日 明六ツ時(午前6時)、兵庫沖を出帆
  19日 朝四ツ時(午前10時)、志州安乗浦へ入津
  20日 同所を出帆するも風向き悪く21日に同所へ戻る
  23日 同所を出帆(朝五ツ時(午前8時)頃)
  同日、志州的矢浦へ入津(日和待)
  27日 同所を出帆(朝四ツ時(午前10時)するも荒波ゆえ湊口で汐掛
  28日 同所を出帆(四ツ半頃)
  同日、遠州掛塚沖あたりから強風増し
     艀舟(はしけ)にて上岬浜へ
松林家所蔵文書

江戸時代の灯台 見尾火灯明堂(みおびとうみょうどう)

行灯の明かりで236年間活躍

海上交易の発達とともに増える海難事故

戦国の時代が終わり、江戸(東京)という大城下町ができあがると、江戸と上方(大阪)を結ぶ千石船が御前崎沖をたくさん航行するようになりました。
御前崎の岬の東方約3kmの地点には、沖御前(おきごぜん)と呼ばれる暗礁群があり、古来より船が座礁し、「海の難所」として船人たちに恐れられていました。このため、江戸幕府は、寛永12年(1635)三代将軍家光の時代に、見尾火灯明堂を設置しました。

あんどんの明かりで236年間活躍

灯明堂は、高さ8尺5寸(約2.6m)、縦横2間(3.6m)四方の台輪建てのお堂で、屋根は板葺き、下床には建物が強風によって吹き飛ばされないように3尺(90cm)の厚さに石が敷き詰めてあったといわれています。
行灯は、前と両横の三方を4尺(1.2m)四方の格子造りで、障子紙を貼り、後は羽目板張りでした。
この中に灯油3合(541cc)入りの青銅製の皿を入れ、灯芯に火をつけ、村人が二人一組になって、一夜中、火の番をしていたといわれています。
この灯明堂は、明治4年まで、実に236年という長い間、御前崎の海を守り続けてきました。

「見尾火灯明堂」の名前の由来

なぜ、「見尾火」と称したかについての文献は残されていませんが、我が国には古来から「水(み)尾(お)津(つ)串(くし)」という川や海の中で船の航路を示す杭がありました。このことから、火を点して目印としたものを「見尾火」と転訛して称したものと考えられています。

宝暦8年(1758)の地頭方村差出帳によると、見尾火灯明堂は、寛永12年(1635)に幕府の役人石川六左衛門と能瀬小十郎が全国を巡検された時、御前崎を訪れて、灯明堂建設を指示したと記されています。

日本屈指の海の難所 御前崎沖

強い西風が生み出す特有の海流と暗礁

御前崎海域は「一に玄海 二に遠州 三に日向の赤江灘(現在の日向灘)」と言われ、日本三大海の内のひとつに数えられる難所として昔から航海者に恐れられてきました。
御前崎沖は「遠州の空っ風」と呼ばれる強い西風と駿河湾の速い潮流がぶつかってできる独特の波や無数に点在する暗礁のため、昔から遭難する船が絶えませんでした。
このため、徳川幕府は寛永12年(1635年)、大阪から江戸に物資を運ぶ千石船に御前崎の位置を知らせるための灯明堂を日本で最初に作って、海の安全を見守ってきました。

御前崎沿岸での座礁事故の記録

明治4年(1871年)2月 軍艦難破の図
鳥取藩の軍艦「乾坤丸」が、御親兵200余人を乗せて東京に向かう途中、濃霧のため尾高暗礁に座礁した。このこともあって、洋式灯台の建設が急がれることとなった。

昭和17年(1942年)7月 榛名丸(10,421t)
日本郵船が所有する欧州定期航路の貨客船の「榛名丸」が濃霧のため御前岩暗礁に乗り上げて座礁した。

昭和34年(1959年)8月 尾高海岸 ダブル遭難
長門丸(838t)・東亜丸(367t)
タンカー「長門丸」(左)と貨物船「東亜丸」(右)が濃霧と高波のため尾高海岸で座礁した。

海難分布図
御前崎近海では明治18年(1885年)から昭和35年(1960年)までの75年間に約160隻の船が遭難し、その多くは御前埼灯台の東方海上に分布する御前岩暗礁、灯台沖、その西の尾高暗礁である。(昭和35年御前崎町の資料より)

平成2年(1990年)4月 マリアナ号(5,000t)
パナマ船籍の貨物船「マリアナ号」が、強風と高波のため白羽海岸に吹き寄せられた。満潮時に再三再四、タグボート曳航を試み離礁に成功した。

見尾火灯明堂(みおびとうみょうどう)

見尾火灯明堂は御前埼灯台が建設される以前の、江戸時代に使用された木造灯台です。寛永12年(1635年)から約240年の間、御前崎沖を行き来する船の道しるべとして、行灯を灯していました。

難破船とサツマイモの伝来

薩摩御用船を救助した大澤権右衛門

江戸時代中期・明和3年(1766年)御前崎沖で薩摩藩の御用船「豊徳丸」が座礁し、その船員24名を二ツ家の組頭・大澤権右衛門(おおさわごんえもん、1694~1778年)親子らが助けました。
権右衛門は薩摩藩からの謝礼金20両を断り、3個のサツマイモとその栽培方法を伝授されました。
静岡県の遠州地方(主に遠州灘に面した県西部)にサツマイモ栽培が普及したきっかけは、この250年以上前の出来事からだと言われています。御前崎地区西側の海福寺には、市指定文化財のいもじいさん(大澤権右衛門翁)の墓碑があります。
サツマイモの伝来は、御前崎の海が難所であったことも大きな要因となっているのです。