基本情報

静岡県最南端の岬の洋式灯台 その建設と経緯

海外との貿易がはじまった明治時代と灯台

幕末になると開国、通商を求めて諸外国の船がやって来ます。文久3年(1863年)、長州藩がアメリカ、フランス、オランダの艦隊を砲撃するという下関事件が起き、その賠償として東京湾周辺など8カ所に洋式灯台の設置を求められました(改税約書、通称江戸条約)。
これを受けて、明治新政府は明治元年(1868年)11月1日に観音埼灯台の建設に着手します(全国灯台記念日)。
御前埼灯台は、政府が招聘した英国人技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンの調査、進言もあって明治5年(1872年)5月26日に着工します。

国内初の一等閃光レンズを搭載して完成

御前埼灯台は、2年の歳月を費やして明治7年(1874年)5月1日完成、点灯を開始しました。当時はフランスのソーター・ハーレー社製の回転式一等閃光レンズ(高さ259㎝)を国内で初めて搭載し、遠州灘を航行する船の道しるベとして活躍してきました。
しかし、昭和20年(1945年)7月、第二次世界大戦(太平洋戦争)中、米軍艦載機の攻撃を受けてレンズや灯器、回転機械が破壊されてしまいました。昭和24年(1949年)、戦後の復旧工事により現在の三等大型2面レンズ(高さ157㎝)が搭載され、昭和58年(1983年)には東海地震にも耐えられるよう灯塔の補強工事が行われ、現在も現役で御前崎の海を照らしています

明治7年(1874年)から御前崎の海を見守る「のぼれる灯台」

御前埼灯台は、全国16基ある「のぼることができる灯台」のひとつです。全高は約22m、岬の高さを含む海面から灯火までの高さは約54mになります。 御前埼灯台の踊り場の回廊からは、地球が丸く見える大海原を眼前に臨めることができます。
また、御前崎は灯台下の岬を囲むように県道357号が整備されています。西は尾高海岸からサンロード、東は御前崎グランドホテルを越えた辺りから、高台にそびえる御前埼灯台の姿をさまざまな角度から楽しめます。 約150年の歴史を持つ御前埼灯台は、これからも静岡県最南端の岬の灯台として、多くの人の心に光り続けることでしょう。

完成当時現在
塗装・構造白色、塔形(鉄造)白色、塔形(鉄造)
灯質群せん白光
毎3秒隔て2秒間に2せん光
群せん白光
毎8秒に2せん光
光度1,700カンデラ実効光度390カンデラ
光達距離13.5海里(約25km)7.5海里(約14km)
明弧全度全度
高さ平均水面から灯火まで19m平均水面から灯火まで18m
レンズ5等レンズ
光源アセチレンガスLED
監視御前埼航路標識事務所職員機器監視
設置・点灯日明治7年(1874年)5月1日
所在地静岡県御前崎市御前崎字燈明1581番地
位置北緯34度35分45秒 東経138度13分32.6秒
総建設費用総額33,314円42銭1厘/旧御前崎町資料より
工事費25,236円96銭9厘/燈光会資料より

御前埼灯台建設当時の物価
白米10kg 36銭
清酒上等 4銭
はがき 1銭
かけそば 8厘
うな重 20銭
新聞(毎日新聞朝刊月きめ)32銭

御前埼灯台 灯塔立面図
1階平面図
2階平面図
3階平面図(灯篭)

R・H・ブラントンと洋式灯台の建設

日本の灯台の父、リチャード・ヘンリー・ブラントン

ブラントンは、明治元年(1868年)8月、26歳で妻子、二人の助手と共に来日し、日本に滞在した明治9年(1876年)までの8年間に、国内に約28基の灯台を建設し、日本の灯台システムを確立しました。
ブラントンをリーダーにイギリス灯台技術団の高度な技術と厳格な職場規律は、その後の日本の灯台技術の礎として受け継がれました。ブラントンはその功績から「日本の灯台の父」と呼ばれています。
明治9年(1876年)イギリスに帰国した後、論文「Japan Lights(日本の灯台)」を学会で発表し、以降も建築家として設計・建築の仕事に携わりました。
仕事の合間に書きためていた「ある国家の目覚め・日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」という体験記の出稿を終えて明治34年(1901年)永眠しました。

ブラントンのエピソード

ブラントンは、灯台官舎が完成するまで、御前崎村の大庄屋・松林久左衛門宅の奥座敷を宿舎としていた。賄いのいっさいは、日本政府から差し向けられたコックが食事や身の回りの世話をしていた。

狩猟が好きなブラントンは、2匹の犬を連れて付近の森に行き、度々、小鳥などを仕留めて来たりした。

ブラントンは、気さくに「おはよう」、「こんにちは」、「おかみさん」などと村人に声をかけた。時には、娘をつかまえて、「おかみさん、こんにちは」などと愛嬌をふるまった。

御前崎の村人は、奥さんと腕を組んで楽しそうに散歩する二人の姿をあっけにとられて見ていた。

はじめは異国人を怖がっていた村の者も次第に親しみを感じるようになってきた。しかし、彼らの生活様式は村人にとっては理解できないことが多く、物好きな者は、石けんを使って体を洗っているブラントンの入浴姿を覗き見て、西洋人の肌の色が白いのは体を砥石で磨いているからだ、と村中に触れ回った。
また、ワインを飲んでいるのを見て、西洋人が赤ら顔で体格が良いのは血を飲んでいるからだ、と決めつけたりもした。

昭和9年、灯台60周年記念祭を伝える静岡新聞より

江戸時代幕末になると西洋諸国の船の来航も多くなり、特にイギリス船や鳥取藩の軍艦が御前崎沖の暗礁に乗り上げるという事故が起こり、これが中央政府に知れて問題化し、洋式灯台の建設が早まった。
明治5年5月、佐田岬、伊王島等の建設を終わった築造方首員リチャード・ヘンリー・ブラントンが、設計書を握ってさっそうと御前崎にやってきた。近郷近在から、大工、石工、左官等が続々と入り込んで寄宿舎や飯場を建て、居酒屋まで出現するというありさまで、岬はインフレ景気に沸いた。陸の孤島の小さな漁村に突如、人が集まり、異国人とともに西洋文化が躍り込んで来たのだから村は騒然とした。

灯台の光を恐れて魚が沖に逃げていってしまうと工事に猛烈に反対した漁師。ちっぽけな土の塊で50尺(約15m)も60尺(18m)もの塔ができっこない、とあざ笑った大工等々。村人たちの驚きと物珍しさの中で、レンガ造りの灯台はまるで生き物のように空高く伸びて行き明治5年5月26日着工から2年の歳月をかけ、明治7年4月30日に完成した。
そして、その夜、落成式が行われ、ブラントンら関係者が祭壇の設けられた外郭から餅投げをして祝った。

歴史的瞬間は、灯台構内や海岸に集まった村人や近隣近在の人達が見守る中、ブラントンがスイッチを入れると、レンズが回転し、サッと真っ白い光の矢が灯台の頂上から飛んだかと思うと、スーッと尾を引いて遠州灘の沖合い遥かに帯のように流れ、村人達は「ワーッ」と歓声を上げてこの光の軌跡を祝福した。

御前埼灯台の構造と資料

ニ重円筒構造のレンガ造だった御前埼灯台

平成の大改修工事で判明

御前埼灯台の外壁塗装と階段室内部板張り改修工事が平成28年(2016年)10月から行われました。灯台本体にピアノ線を巻きつけた耐震補強工事が行われた、昭和58年(1983年)以来、実に34年ぶりの大改修でした。
灯塔の白いペンキが剥がされ、内部の板張りが取り除かれると、約150年前の建設当時のままのレンガ積みが出現し、内部は二重構造であることが判明しました。

南側明り取り窓の左下にハンマーで砕いたような縦70cm、横60cm穴があります。戦時中の旧海軍防空監視哨建設時、あるいは戦災による復旧時のものと考えられます。

外側壁はモルタルで補修してあるようです。 中央の黒く見える物は木材で、鉄筋の代用として用いたようにも見えます。右側手前の黒くぶら下がっているものは、日本ブラント ン協会の大槻貞一氏がレンガ造り灯台の耐震対策で述べている 5 段積み上げる毎に入れる帯鉄ではないかと考えられます。

塔は長短のレンガが整然と積まれています。北側の明り取り窓の下にあるアーチに組まれたレンガについて、清水海上保安部では、大きい石材等資材を入れた搬入口の跡ではないかとの見解を示しました。

塔の中心部にある分銅室。モーターが設置されるまでは、灯塔の高さ分だけの鋼鉄製のワイヤーに500〜600kgの分銅を吊り下げ、その落ちる動力によってレンズを回転させていました。分銅を巻き上げるため、日没から日の出まで何回もらせん階段を登り降りするのが灯台守の重要な仕事でした。

らせん階段となる石柱は外壁と灯塔部の壁のレンガに組み込まれています。上部の外壁はレンガ積みから石積みに変わっています。

犬吠埼灯台ブラントン会 代表 仲田博史ブログより

平成28年10月から本年11月末までの期間実施された「御前埼灯台改良改装工事」で、同灯台灯塔が二重円筒構造であることが判明した。
私が御前埼灯台の補修工事が始まったことを耳にしたのは昨年11月半ば旧知の「御前埼灯台を守る会」会長のSさんにメールを送り、現在工事中なら、是非灯塔の壁が犬吠と同じ二重円筒構造かどうか、灯塔やパラペットに戦災の傷跡(弾跡)などは残っていないか確認した方がよい、可能ならば実物のレンガ壁をのぞける小窓のようなものを設けてもらえたら最高などとチェックポイントを図解して送ったところ、灯台ファンならば喉から手が出るような貴重な工事写真がS氏からワンサカ届いたというわけ。
実は、これまで御前埼灯台の灯塔は一重構造であるとされていた。どうやらこの件は未だ世間では知られていないようで、早速、事実確認のため建築史がご専門の東工大名誉教授F先生と海上保安庁随一の灯台史研究家F氏(本件で工事を担当した三管の技術者にも確認してくださった)に照会したところ、お二人ともこれらの写真で見る限り御前埼灯台は二重円筒構造に間違いないという判定だった。
これでブラントンのレンガ造灯台4基のうち灯塔の形状が異なる菅島灯台(三重県、明治6年7月)を除き、初点灯年順に御前崎(静岡県、明治7年5月)犬吠埼(千葉県、明治7年11月)尻屋崎(青森県、明治9年10月)の3基が二重円筒構造ということになったわけだ。
今回、わが犬吠埼灯台より先に二重円筒のレンガ造灯台が存在したことが明らかになって、地元住民の一人としては正直なところチョッピリ残念な気もするが、もともと御前崎とは誕生年や服装も同じなかよし姉妹灯台だから、いわば長女の慶事と日本の灯台史に新事実が加わったことを素直に喜ぶことにしよう。
あわせて、灯塔の内壁に新しく設置された小窓を通して、煉瓦の長手方向だけを並べた層と小口方向だけを並べた層を交互に積む「イギリス積み」のレンガ壁を、シッカと、見ることができるようになったことは見学者の視点に立った工事関係者のスマートな対応だと賞賛したい。なにしろ、ここ数年というもの、私は、出雲日御碕灯台を参考にして犬吠埼でも手前と奥の二重の壁(円筒)構造が一目でわかる仕掛けを実現できないものかと夜ごとうなされていたくらいだったのだから。
ただ、ブラントンがどういう目的で日本のレンガ造灯台に二重円筒構造を採用したかは現時点で必ずしも明確ではない。耐風性や耐震性、耐湿性などを考慮したとする諸説があり、残る菅島灯台が二重円筒構造か否かを含め、これからの解明が待たれるところ。
私の見立てでは、この課題を真正面から捌けるのは、日本広といえどもそう多くはない。となれば、灯台研究生さん、あなたの出番です!